9月11日にJATDT知立展実行委員5名が関西展(プラハと関西両面飾り)陣中見舞いと関西から知立展へ出展する作品の内容確認をする視察を兼ねて大阪現代美術センターを訪れたことからこの物語(苦難の道)は始まるのでした。
登場人物は、島崎知立展実行委員長、坂知立展実行委員、島田知立実行委員、藤田、清水両実行委員(知立文化会館パティオ池鯉鮒職員、朝から少々浮かれぎみ。)
その日名古屋は、雨。そして、大阪も雨でした。雨の中の関西展開幕。視察〜作品の確認、写真撮影、関西展実行委員と打ち合わせを終えたのが夕刻。知立展実行委員は、1名、2名と帰路につく支度を始めるのでした。が、朝から降り続くその雨がいつぞや豪雨となり大災害を引き起こしているとは5名の知立展実行委員は知る由もなかったのでした。 |
島田も関西展懇親会を後に、新大阪駅に向かったのでしたが新大阪駅は、何やら深刻な趣と流れが止まった人盛り。(その中に土屋事務局長を発見、いや土屋さんに発見されてしまったが正解です。)
新幹線が大幅に遅れ、上り先発列車が途中で止まっているようでしたが、「えいっ!いいや何でも乗っちゃえっ。」と2時間遅れの「ひかり」に乗りこんだら運よく発車したから「よしよし安心」と思っているうち列車は京都へ到着。そこからが大変、止まった、止まったっきり、そのままずーっと止まったまま。携帯電話のバッテリーも切れ孤立状態でとうとう一晩、列車の中で夜を明かすことになってしまいました。(後から聞いたのですが、西宮に更けた島崎氏以外は、全員異なる列車で車中泊だったようです。そんな中でも藤田、清水両女史は、最後まで浮かれていたとのことです)
自分の顔が写る車窓から暗く雨降る京都駅街をながめながら、1993年1月14日から2月28日、大阪、名古屋、盛岡と3都市を回ったJASTA巡回展のことが蘇ってきました。
1993年2月12日、名古屋は雪。その雪は前日から降り続け、大阪から名古屋へ作品を搬入するトラック到着を6時間以上も遅れさせました。
「展覧会が開催できるのだろうか?」と当時JASTAに入会したばかりの私でしたが、ドキドキ、イライラ、お腹がクーッといってたことを思い出しながら・・・
「関西と中部が組んで事業をやると何かが起きる・・・。」と今回もセオリー通り始まった知立展でした。(物語の結論) |
さて、(前置きが長くて恐縮ですが)知立展を開催した知立市は、愛知県のほぼ中央に位置する市面積も小さな市です。(名古屋市は愛知県の西になります。)
会場となった知立市文化会館(パティオ池鯉鮒チリュウ)は、水と緑と泉の劇場と当該館の唱い文句にもなっているだけあって、水田の中に忽然と現れたコンクリートの建造物といった感じです。梅雨ともなれば、両生類の合唱コンクールの開催も可能な劇場です。その劇場の2階ギャラリー(約200F)で約2週間のJATDT展(PQ凱旋展含む)が開かれたわけです。
準備段階で、名古屋市内で開催するより遥かに来場者は少なかろうとタカヲククッテ芳名帳を1冊しか用意していませんでしたが、蓋を開けてみると芳名帳がいっぱいになり、用意していたご質問帳なるものを急遽芳名帳に仕立てて対応。予想外の大盛況となっていました。最終日の10月1日には、高田理事長による講演「舞台美術のおもしろさ〜うそかまことか〜」も開催され、おおいに盛り上がりました。
次回は、愛知県を飛び出して三重県、岐阜県からお声がかかればいいのかな?
文末となりましたが、知立展の仕込み、撤去にお出でいただいた西日本支部会員の方々に心より御礼申し上げます。また、開催館の館長様始め、職員の方々誠にありがとうございました。「皆様、オツカレサマデシタ。」 |